昭和45年05月24日 特別奉修委員
お道の信心は、肯定もなかならければ否定も無い。と言われております。ね。いわゆる、分かりやすく言うと、是で済んだとは思いません。という生き方でなかなきゃならんと言う事です。もう是だけしたから是でよいと言うてはいけん。と言う訳なんですがね。昨夜の月次祭のお説教を頂いておりますと、大体そんな事だったと思うんですよね。皆さんそう言うふうに纏められたでしょうか。
例えばあのう気休めと言う所からね、ご信心を頂きお話頂いたでしょう。とにかくあの信心はね、あの第一気休めだと言う事。気が休まると言う事がおかげの元になると。そう言う所から信心に入って気休めが段々、まあ安心又は安心立命と言う所まで辿らせて頂くと言う様なご理解だったでしょうが。色々と聞きましたけれども、問題はあのそこが焦点だったんですね。昨夜のお説教は。
もう大変だからみ易いお説教であって実は大変難しい。もうどうでもそこん所を前進していく以外にないというご理解だったんですよね。ですからあの私共がそこへ肯定しますですね。お互いの信心で。私がいつも申しますように、折角おかげを頂かして貰うならば同じままになるでも、まあ百円の丼物よりも千円もかかった会席膳もやっぱあるとですからね。もっと高い三千円も五千円もする様な一人前の言わばその御ぜんぶが出来るということさえ出来るのですから。
同じただまあもう腹一杯は腹一杯なんだからね。けれども折角ならばそこに良い、有り難いやろ。同じままになるじゃなからないけない。と言う事をいつも申しますが、その自分の信心がですね、あのある程度の所で留まってしまいますとおかげがそこまでになるわけです。して昨日あのご理解の中から頂きます事は、とにかくこげんなかならければおかげが受けられんちゅう事じゃないと言う事なんです。
もうどういう例えば初心の人であろうが、又は気休め的な意味での信心であろうが、矢張りおかげをそれなりにおかげを受けると言う事でしたんですよね。先日熱心にあのお参りされる方なんですけども、娘さんがまあちょっといいかと来られまして、電話が掛かって来ました所が、えらいこう元気が無い。聞いてみると具合が悪くて、何日か休んどるとこういうのである。
ほんでもうお母さんとある人が、大変心配を致しましてね、あの今から自分が行って見ると言うわけ。でまあそういうお届けをされましたから、まあなら行っておいでなさいと言ってまあ二、三日向こうに泊まられて。はかもう私が参りましたから、私が元気ずけてきたからあっちもおかげ頂いて、おかげ頂いて帰って来たとこう言うて、もう自分が行ったからおかげ頂いたように言われます。
それをなるほど、勿論行って元気ずけられたことも事実ですし。信心の話が巧者な方ですから、もうお母さんの話を聞きよったら元気ずいたと言うぐらいに、やっぱり皆が言うぐらいですから、そうですけれどもですね。丁度あくる日はお月並祭であった。その日だったですか、あくる日だったですか。だからもう例えば、普通の私の信心でいくならばです、ね、自分が行ったからと言ってどうなることじゃない。
神様にお願いをして私は、お月並祭もあることだから、お母さんは一生懸命お取次ぎを頂いてお願いをするよ。あんたは日頃の信心を生かしておかげを頂かないけんよ。とまあ電話で、言えれる信心もだからあってよい。けども自分もやっぱ行って見なきゃ心もとないから、逢いもしたい。また、その向こうではお年よりも居られませんから、朝ご飯も炊いてやれば、お薬も作ってやりたい。
まあ、行けば確かに喜ばれる事は間違えない。だから、そこにもですね、帰ってきて言われるように、ほんとに私が行ってようございました。こういうようなおかげ頂きました。とこう言うわけなんです。これはですねもう肯定してるわけなんですよ。自分が行ったことが一つも間違えじゃなかったと思うておるわけなんです。ね。だからね、それでいいんですよ。いんですけれども。
例えばんなら、あの東さんの今度の手術のお医者に掛かった問題でもそれでいいんですよ。それでおかげ頂かれるんです。ね。そこにね、あの、神様のおかげと思わなければおられないような働きがそれでもあるという事ですよ。間違いなしに。ね。だからこれが本当だと言ったようなことであったら大間違えだということですよね。
ある方が、これも、体の具合が悪いから信心の大先輩である、ある方にその、話をしたって言うんです。そのおばあちゃんが言われる事がです、もうとにかく〇〇さん、もうなんちゅうたって、体の事だけは医者どんがのちこういう。なるほど、自分の孫が最近医者に入院してからおかげ頂きよります。それもまた、ほんとにおかげ頂きよるんですよ。またおかげ頂きよるです。
だからそれでもおかげ頂くことだけは間違えないばってんもね、もうそれで、それがほんなこって言うような思い方はもう肯定した頂き方です。ね。だからその本人はがっかりしてるわけですよ。はあ一生懸命、信心だ、がんばらんのっちゅうて信心の話もして下さるかと思うたら、もうどうかある時には医者どんがのっち言わっしゃったからがっかりしたと言うてあくる日参って来てここでお届けをするんですよね。
これは、その人は肯定しとるどころか、もう病気だけは医者じゃなきゃでけんごと思うた事を表現してあるですね。これではね、なるほどおかげは頂かれるけれどもです、ただおかげを頂いたということでしかすぎないのだと。ね。だからそれでもいいから、私の信心がたりませんから医者にかかりました。私の信心が心もとない。とにかく自分が行くよりか、神様にお取次ぎ頂いてこちらが自分が修行してやったほうが娘もおかげ頂く事は分かっとらんはずはない人ですから。
おかげ頂くけれども、行かにゃ心もとない、心配だから行くのです。東さんの場合でもそうです。心もとないから病院に入院したんです。だからそれはいけないのじゃけしてありません。そこなりにですねおかげを頂く。例えば昨日は安らぐとか安心とか、安心立命とか色々な角度から色々話しましたが、そのそれなれなりにそこでおかげ頂く。例えば信心な気休めにしよったっちゃ気が休まるだけでちゃおかげ頂く。
電話で大丈夫おかげ頂くやろう、と言われたらもう心が安らいだ。そこには〇〇大神が見えてから、その大神さんがね、電話掛けてくれたら、一変に問題が解決したと言ったような、大変なおかげになって来てる事だけは事実なんです。昨日そんな話でしたわね。ですから、その、あのお話しの内容というのはみやすう頂きゃどんなんでもみやすう頂きますけれども、難しゅう言うと今日私が申しております、昨日のお説教は、お道の信心はね、肯定もない、否定もないという信心。
それはどう言う事かと言うと、これで済んだとは思わない。というところにです、次のもう一段、一段高いおかげの世界があるということを私共いつも知っとかなきゃいけないということなんです。同じままになると言うても、ただままになったというだけ。それには、お吸い物もついとるお刺身もついとる。もう様々なごちそうをいっぱいでままになるということもある。
いやままになっただけじゃない、ままになったらそれが栄養になった。それが力になった。ここを通り抜けたい、おかげ頂いただけじゃない。おかげを受けた時には力を受けておった。お徳を受けておったというような頂き方もあるということをね、まず私共がちゃんと腹の中に入れといて、そして現在の信心の程度に応じてですね、おかげを受けてかなきゃいけないけども、自分のおかげの信心の程度でおかげ頂きますと、もうこれで良かったかのように思うということがもう信心がそれで進展しないです。
娘が具合が悪かっち聞いてすぐ自分が飛んでいってやることがほんなことなように思うたんではね、もうそれはおかげ頂いても徳にはならんと。娘の事はもう神様にお任せして、そして一心にすがる。それこそ、行ってから三日でおかげ頂くなら一日でもおかげ頂きましょう。親がそのくらいな決心すりゃあ。だけではない、そこには親が徳を受けるという道さえついて来るんですよね。本当は。
私ほんとにこのへんのところをですね、皆さんがいいかげんにしておることをいつも思うです。もうこの人はもう二十年間愈々信心もしておる人。この人はもうに合楽じゃもう雄弁家でも通っておられますし、信心もそのおかげを受けておる。体験も大変持っておられる人です。今の二人の話も。それでもですね、やっぱり娘のとこに行った事に対してから、ほんと自分の信心が足りませんけんやらして頂くという事で、行く事が当たり前、行ったけんおかげ頂いたかのように言うたり思うたりしておる。
それこそ自分のもうそれこそ、生か死かと言う様な所をおかげ頂いて、もう合楽の親先生、金光様のこと思うておるそのお婆ちゃんがですよ、ね、自分の孫が病院に行ってから病院でなるほどおかげ、おかげは頂くってどこでおったっちゃ。そしたら信心のまだ若い人が来てから相談さして頂いて元気づけちもろうたと言った所がまあどげんだったっちゃもう、体の具合が悪か時にはもう医者どんがのっちこう言う。
もう私これを聞いてがっかりするんですほんとは。ね。だからもう信心を肯定してしまってるわけです。是だけはもうやっぱ、こうがほんなこつがのっというふうに決めてしまっておる。そんなこつじゃないもう限りなくおかげの頂けて行く道をね、私共は選ばして頂かなければいけない。昨日一昨日でしたかねこの奉修委員の方達、光橋先生がおります、こりゃ光橋先生がまあとりつかねてあのおかげ頂いておりましたけれど。
もう居られんごとなったから私がまあ婦人会長としておかげいただかなならんからと言うて熊谷さんお届けがあっとりました。今日の事ちゃんともう何日も前からお届けがしてあるわけなんです。所がですね、帰らして頂いたら電話が掛かってきたと。吉井の娘さんから。今日のね7時に是非用があるから来てくれ。それを娘さんが引き受けておられたんです。そりゃしもうたの、明日はこげな大事な事があるとだから。
どうでしょうか皆さん。こげな大事な事と思うたらとても今日は出てこにゃおられんとですよ。実を言うたらね。奉修委員、奉修委員。例えば美登里会の人達は。ところがこの頃おろそかになっておると言う事はどういう事でしょうか。私は親先生の、御病気平癒の祈願と言うことが中心ということになっとるけど、ほんなこと言うたらお願いしてもらわんでん、なんでんよっかてす。ね。けども皆さんは、お願いしなければおられないからお願いしてるのでおられるのでしょうが。ね。
そう言う所から出発したものがいつの間にか疎かになって、ね、十人が五人になり五人が三人になると言った様な事ではどう言う事になるだろうか。だからそう言う大事な事だと熊谷さんは頂いておられる訳なんです。だから是がもし今日来てない様な方達だったんならば、もう当然の事として今日は娘の所から電話が掛かっとりますからご無礼しますと言うたに違いない。ねそうでしょう所謂肯定したわけです。信心。
けれども今日は一週間に1回、しかも私共その事一生懸命祈らしてもらわなければならない大事なことであるからとしてです、ね、そりゃ困ったのそりゃお母さんは、あんた奉修委員の御祈念会があるけんそりゃでけんよと。それでも向こうの吉井の方からでしたか、吉井方から不意に電話掛かってきた。そこであくる日参って来てから、その事をお取次ぎ願われて、私はどげなん事があったっちゃやっぱり。
こちらの方におかげを頂かにゃなりませんから。ね。先方の方が万事お繰り合わせ頂くようにと言うお願いがあったんです。そしたら昨日ここ唐、ここに昨日3度お参りになっとります。丁度お供えを持って見えられた。お月次祭の時は必ずそげんですがね。でここから先方へいつも吉井に、明日こうこうだから、電話掛けられるつもりで電話掛けたところが、今福岡から帰ったというとこであった。
その吉井の娘さんが。そしてお母さんあれはこげなんふうになったから、まあ九時ごろからでもよかっていうことになった。お繰り合わせを頂いて。まあもうほんとに神様のご都合にはおそれいりますって言うて昨日、お届けしておられるようにですね、これがどういうことになるでしょうか。そう言うお繰り合わせを頂いたではなくてね、そこにね一にも神様、二にも神様というその神様を、第一主義にした所に、是が御徳にならんはずがないです。そう言う生き方は。ね。
信心を肯定されなかった。または否定もされなかった。是でええと言わずという事じゃなか。ね。もうほんとに是で済んだと思いませんという信心が、いつも心の中にあるから、それが出来るのです。昨日のご理解はね、実は難しゅう言うと、ただ今私が申しましたような事が、分かってもらいたいが、為のあんなみやすいお説教でしたですよね。だから昨日のお説教もういっぺん思い出してね、そして今日私が申しました事をもういっぺん頂いてみてごらんなさい。大変、有り難くてよく分るです。
どうぞその過程においてね、もう絶対、ね、それこそ私東さんの例で申しましたように、ね、私ならしゃっちかからんでもおかげ頂くだろう。けどそれは東さんだから医者にかからなきゃならん。だからおかげ頂かんからじゃない。お取次ぎを頂いてその信心の程度においておかげを頂くならばです、もうそれこそ、あれもこれもほんと神様のお働きはなんて素晴らしい事じゃろうかと思うような雰囲気がです、
病院の中に出来ておるということ。だから、んならこれが本当だと肯定したらもうその人の信心はそこでお終いになってしまう。ね。こういう信心の程度が低いけれどもこのようなおかげを下さると言う頂き方でなからないかん。もう一事が万事そうなのですからね。もう合楽ではなんて言ったって一番最後のギリギリの私の生き方で行かして頂く。信心の信心でなからにゃね。力が付きませんよ。
どうぞ。